「海上渡御」で「神輿船」(興居島では「神輿伝馬」)を曳航するのが「櫂伝馬」です。櫂で操作する木製の伝馬船で、瀬戸内海では、特に、海賊衆(水軍)の船として使われていました。
一方、厳島神社の管弦祭(御座船)を曳航する船を「漕ぎ伝馬」と言います。有名なのは広島の「江波の漕ぎ伝馬」(発祥は1701年)です。
「櫂伝馬」と「漕ぎ伝馬」いずれも木造船ですが、違いがあるとしたら「櫂伝馬」が海賊衆(水軍)と関連があることです。
現在、海賊衆(水軍)の流れを組む行事として「櫂伝馬競争」があり、大崎上島や大三島の宗方などが有名ですが、これらの地域では、現在でも「櫂伝馬」を使用し、船の造船技術や操船技術を継承してきました。
それに対して興居島の「海上渡御」と「船踊り」は、「櫂伝馬」の役割はあくまで曳航のためでした。
実は、文化庁の「文化遺産オンライン」の興居島の船踊りの欄には「櫂伝馬」ではなく「漕伝馬」となっています。興居島が海賊衆(水軍)とつながりがありながら「櫂伝馬」ではなく「漕(ぎ)伝馬」なのかは推測できます。
「船踊り」は元々、海賊衆(水軍)の凱旋踊りであり、凱旋してきた船の上でそのまま踊られていました。民衆が踊るようになったのは、1588年豊臣秀吉が「刀狩り令」とともに出した「海賊禁止令」により、興居島から「海賊衆(因島村上水軍)」がいなくなってからです。興居島の島民が海賊(衆)であったわけではないので、持っている船は「櫂伝馬」ではなく、漁業や農業に使う船、つまり「漕ぎ伝馬」でした。
興居島では、部落同士の移動は道路の整備が進むまでは船が主でした。漁師ではない農民も畑への移動や藻場を獲って肥料にするために一丁櫓の伝馬船を所有しており、それらは「農船」「百姓伝馬」「山伝馬」と呼ばれていました。「神輿伝馬」や「踊り伝馬」の曳航も、それらを利用しました。
海運業が盛んになると、帆船のボートを利用したりし、大小様々な手漕ぎの船を使って曳航しました。
手漕ぎの船が使われていた頃には、「そりがい」が行われました。掛け声に合わせ「トモガイ(漕ぎ手)」が、背中を合わせるように立ち上がり、櫂を握って海へ倒れ込むもので「見せ場」でした。子どもたちにとっては、「船踊り」の踊り手よりもトモガイの方があこがれの対象でした。
昭和20年前後、「櫂伝馬」が衰退すると、動力船が使われるようになりました。生活物資や農産物の運搬に使われていた「渡海船」、石材運搬に使われていた「石船」、漁船などです。
現在では、曳航ではなく、漁船に神輿そのものを載せるようになりました。それも由良地区のみで、その他の地区ではトラックに神輿を載せて神社のある船越まで運んでいます。
唯一の「海上渡御」である由良の漁船は、船越前の海を3周します。これはかつて「櫂伝馬」が「踊り伝馬」の周りを3周する習慣があったことの名残です。この3周には意味があるようで、「宗方の櫂伝馬」も左回りに3周する習慣があります。「江波の漕ぎ伝馬」は挨拶のために3周します。
「船踊り」も「踊り伝馬の変遷」にあるように、時代時代の産業と結びついた素材が土台となりました。工事用台船も使えなくなると、宝くじの助成により専用の「踊り伝馬」となり、曳航されるものから、固定で使用するものに変わりました。
泊地区では、その「踊り伝馬」の組立も出来なくなり、2022年からは、船ではなく体育館で踊るようになりました。現在、「踊り伝馬」で「船踊り」を実施しているのは由良地区だけとなりました。