「踊り伝馬」の変遷

【戦前の「踊り伝馬おどりでんま」】

漕伝馬三艘(こぎでんま)、踊り伝馬、神輿伝馬(みこしでんま)とが一組となって海上渡御(かいじょうとぎょ)する。踊り伝馬は三艘(さんそう)または四艘の伝馬船を並べて舞台を敷き、間口二間半(まぐちにけんはん)奥行一間半(おくゆきいっけんはん)程度の舞台を作る。このまわりを青葉で囲い、屋根をつける。この舞台で歌舞伎や新作の舞踊などを演じる(文化財オンラインより)

戦前の「踊り伝馬」

【昭和20年代の「踊り伝馬」】

イワシ船2隻を並べた上に板を敷き、背景や左右に松やクヌギ等の自然木をあしらい、舳先(へさき)には「梵天(ぼんでん)」(伊予水軍船の指図(さしず))、(とも)には「剣櫂(けんがい)」(斬込(きりこみ))、そして「中踊り」(一騎打(いっきうち))の三つの踊りが組み合わされています。(昭和30年代半ば頃まで、漁船2隻を使っての「地引網漁」が盛んでした。)

写真は昭和21年の秋季大祭で奉納された「里見八犬傳(さとみはっけんでん)」です。

昭和20年代の「踊り伝馬」

【昭和30年代~昭和40年代前半の「踊り伝馬」】

昭和33年から (とまり)御手洗(みたらい)鷲ケ巣(わしがす)で「真珠養殖」が始まり、 昭和40年代前半頃まで真珠の養殖筏が使われました。船ではなくなったため舳先(へさき)(とも)の別がわかりませんが、由良(ゆら)地区は舳先が右、泊地区は舳先が左です。これは、それぞれの地区(港)から見て「船越和気比売神社(ふなこしわけひめじんじゃ)」の方角に舳先を向けるもので現在までこの形は続いています。

写真は昭和37年の秋季大祭で奉納された「大阪城落城」です。

昭和37年「踊り伝馬」

【昭和40年代後半~平成元年の「踊り伝馬」】

「真珠養殖」に陰りが見え始めると、工事用台船が使われるようになりました。波の影響を受けにくく安定して踊れるようになったため大掛かりな仕掛けもされるようになりました。写真は昭和57年の秋季大祭で奉納された「踊る怪猫かいびょうは佐賀の夜桜」ですが、ここでは滑車を使っての「宙吊り」も行われ観客の度肝どぎもを抜きました。

昭和57年「踊り伝馬」

【平成6年~現在まで】

平成5年度宝くじ助成により「専用台船」が作られました。木組みから鉄骨製となり、陸上で組み立てを行い、それを重機で吊り上げ海に浮かべると言うものです。組み立てに必要な人手と金銭的負担が難しくなり、令和4年より泊地区では台船の使用をやめ興居島小中学校の体育館で踊るようになりました。由良地区は現在も「専用台船」での踊りを続けています。

写真は平成29年の秋季大祭で奉納された「羅生門(らしょうもん)の鬼」です。

「羅生門の鬼」踊り伝馬

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