【平安時代/藤原純友の乱】
海賊衆に関する最も古い言い伝えは、平安時代「承平年間(931年~938年)」で、936年に藤原純友が興居島に上陸したと言われています。
藤原純友は、931年に伊予の掾として伊予に赴任すると当初は海賊を取り締まる側として活躍しました。しかし、任期終了後も伊予に留まり、朝廷からの帰還命令も無視し、いつしか海賊集団の指導者的な立場になっていきました。
瀬戸内の海賊たちは、単なる略奪集団ではなく、もともと漁業や海上輸送で生計を立てていた人々でした。律令体制の乱れにより武装して抵抗するしか生き残れなかったのです。
藤原純友の反乱は939年に始まりました。本拠地の日振島(宇和島市沖)を足がかりに、1000余艘・2500余人ともいわれる大船団を統率し、瀬戸内の海上を制圧していきました。
941年には九州の大宰府で略奪を行い、朝廷は小野好古を「追捕山陽南海両道凶賊使」として純友追討の任に当たらせ、博多湾で純友軍を撃破しました。敗走した純友は伊予まで戻りましたが伊予の在地武人・橘遠保に討ち取られました。
この時に、朝廷側の追討軍と共に興居島の海賊衆が参加し、純友軍との海上での戦いの様子を「凱旋踊り」にしたものかもしれません。
【平安~鎌倉時代/源平の戦い】
源平の戦いでは河野通信が水軍(海賊衆)を率いて源義経の軍に協力し、屋島の戦い、そして、壇の浦の戦いで、平氏を滅ぼしました。河野氏率いる海賊衆が、戦に出発するに当たって、鹿島神社の社頭において、戦勝祈願をしたのが、今に伝わる「櫂練り」(県指定無形民俗文化財)の起こりであるとも言われています。
鎌倉幕府の御家人となった河野氏でしたが、承久の乱では後鳥羽上皇方に味方したため処罰され、幕府方についた通久と、出家していた通広(一遍上人の祖父)だけが生き残るという存亡の危機に陥る中、元寇が起こります。
【鎌倉時代/元寇・弘安の役】
河野通有は石築地の前方に陣を構え、この戦に賭ける並々ならぬ覚悟を示しました。通有の心意気に、後に陣取る多くの将兵達は「河野の後築地」と呼んで称賛しました。
通有は小舟で元軍の大船に乗り込み、伯父の通時や村上水軍の当主である頼久が戦死する中、帆柱を倒して敵船に立て掛けてよじ登り敵船に切り込み、敵の大将を生け捕りにする手柄を立てました。
功績のあった通有は、幕府から河野氏の旧領を復帰させられたばかりでなく、肥前と肥後にも領地を与えられました。
中島を支配していた「忽那氏(忽那海賊衆)」に伝わる「忽那家文書」(国指定重要文化財)には、「一族成戦功究高名右為賜興居島」とあり、元寇での功績により興居島を所領としたことになります。
興居島は、河野家との関係が深いとおもわれますが、河野氏の歴史の間には没落した時期も何度かあり、弘安の役の前も不遇の次代でした。だからこそ、捨て身の覚悟で戦功をあげ元々の所領を取り戻した上で、新しい所領も手に入れたわけです。河野氏と共に出陣した忽那氏に恩賞として与えられたのが興居島ということになります。
【南北朝時代】
鎌倉幕府が滅亡し、1333年に後醍醐天皇による「建武の新政」が始まりましたが、わずか3年で崩壊し、室町幕府が成立すると、室町幕府の押す光明天皇(北朝)と後醍醐天皇(南朝)に分かれて戦う南北朝時代になります。
鎌倉幕府の滅亡とともに困窮した河野家(通盛)でしたが、足利尊氏(室町幕府)により本領を安堵されたことから北朝方となり南朝方と戦いました。
河野通盛は、一族の力が復活した1335年前後に湯築城へ本拠を移し、海賊衆(水軍)の拠点として港山城が築かれました。
一方忽那氏の元には、1339年から南朝方の後醍醐天皇の皇子である懐良親王が3年間留まりました。同じ伊予の中に南朝方と北朝方が入り乱れ、興居島は戦場となりました。
北朝側であった河野氏ですが、1364年伊予国の守護職を狙う細川氏(北朝)に攻め入られ、当主の通朝は戦死します。その子、通堯は村上氏(後の能島村上)や二神氏(後の二神海賊衆)と共に九州にいた懐良親王に会い南朝方に鞍替えしました。しかし、通堯も1379年細川氏との戦いで戦死します。その2年後に細川氏と和睦します。
伊予国守護となった河野氏でしたが、通堯の子通義が26歳で急死し、弟の通之に守護職を継がせ、その後(通義の子)通久が誕生したため、通之は甥の通久に家督を譲りましたが、通之の子・通元がそれに不満を表明し対立が発生しました。
次の代になっても湯築城に教通(宗家)、港山城に道春(豫洲家)に別れて争いが続き、室町幕府で畠山持国と細川勝元が交互に政権を担当すると、教通が畠山派、通春が細川派として争っていました。しかし、通春と細川勝元との関係が悪化すると通春は西軍(畠山派)に属するようになりました。一方の教通は、当初細川勝元と険悪だったため西軍に属していたのが、東軍(細川派)に乗り換えています。
【応仁の乱】
応仁の乱は幕府(足利氏)の跡目争いに端を発しますが、同様に畠山氏でも跡目争いがあり、河野氏の宗家と豫洲家の争いも、中央の争いと深く関係する形で続きました。
細川氏の働きかけにより、1465年8月、6代将軍の足利義政により、周防国の守護大名であった大内教弘に河野道春(豫洲家)討伐の命が下り、大内教弘は、興居島に陣を構えました。しかし、幕府の命に背き、河野道春に味方し、細川勝元と戦いました。大内氏が道春に味方した背景には、細川氏の力が強大になることを防ぐ以外に、道春の持つ「海賊衆」(水軍)の力に魅力を感じたともいわれています。しかし、大内教弘は流行り病により9月3日47歳で興居島で亡くなりました。城(館)跡があったと言われる船越の裏山にお墓があります。
河野氏の骨肉の争いは続き、河野氏衰退の一因となりました。
【厳島の戦い】
1551年に大内家の家臣で会った陶晴賢がクーデターを起こして実権を握ると、同じく大内氏の家臣であった毛利氏と対立します。元就は、次男の元春、三男の隆景をそれぞれ吉川・小早川の当主にしたことで勢力を伸ばし陶に対抗しました。
1555年の「厳島の戦い」で毛利氏の勝利に大きく貢献したのが「村上海賊衆」でした。毛利氏の水軍に加え、小早川隆景と関係が深かった「因島村上海賊衆」、その数を上回る300艘もの船を出したのは「来島村上海賊衆」でした。この戦いの勝利により毛利家が台頭します。
「厳島の戦い」に興居島の海賊衆が毛利方で戦ったと言われており、「村上海賊衆」の支配下にあったと思われます。
【戦国時代】
興居島に「明澤城」が出来た年代は不明ですが、永禄年間(1558年~1570年)と言われ、城主は河野氏の侍大将十八将の一人で御船大将でもあった村上備中守吉光(因島村上氏)配下の村上信濃守弘正でした。つまり、興居島は「因島村上氏」の支配下にありました。
村上弘正の次の城主は石﨑四郎三郎日宗で、「明澤城」の最後の城主となります。
【木津川口の戦い】
織田信長と浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)との戦いが始まり、1576年、石山本願寺の支援に向かった毛利水軍と、織田信長軍が激突しました。この「第一次木津川口の戦い」では、毛利方の焙烙(手投げ弾)や火矢によって織田水軍は完敗しましたが、この焙烙や火矢は「村上海賊衆」の戦法です。毛利水軍を指揮したのは、小早川水軍の提督乃美宗勝です。村上吉光(因島村上)の妻は宗勝の妹であり、因島村上氏と小早川氏(毛利氏)との関係は深かったのです。
残念ながら、1578年の第二次木津川口の戦いでは、大型の鉄甲船を建造して臨んだ信長が圧勝しました。
【1585年/長曾我部元親の伊予侵攻と豊臣秀吉の四国討伐】
伊予にとっても、興居島にとっても「1585年」は変動の年となりました。
四国統一を目指す長曾我部元親は、1585年春伊予に侵攻します。長曾我部元親が四国を統一したかしていないかは歴史学者の中でも意見が分かれています。何をもって統一とするかどうかが、湯築城の河野通直が降伏したかしていないかによるものだからです。
わずか2か月後の1585年6月には、豊臣秀吉が四国討伐を開始しており、長曾我部元親の侵攻を籠城して絶えたと考えるのが自然です。通直の母は小早川隆景の養女であり、隆景にとって通直は甥で、庇護の対象でした。
秀吉の命を受けた小早川隆景は興居島に陣を構え、通直に降伏を進めています。同時に興居島の「明澤城」も開城しました。因島村上氏の支配下にあった興居島は、因島村上氏とつながりの深い小早川隆景と戦う理由はありませんでした。むしろ、隆景は興居島を拠点として松前城を攻めていたわけです。
【伊予の城割と河野氏の滅亡】
翌1586年、小早川隆景は伊予の城割を実施しました。10か所の城のみを残し、残りの城は廃城としました。この時、興居島の「明澤城」は残されました。
しかし翌1587年、小早川隆景は伊予から筑前に転封となり、湯築城に庇護されていた河野通直を竹原に移して再起を図らせようとしましたが通直は病死してしまいます。ここに約400年続いた河野氏は滅亡します。
【海賊禁止令と因島村上海賊】
翌1588年、豊臣秀吉は「刀狩令」とともに「海賊禁止令」を出します。これにより、因島村上氏は毛利家の家臣となりました。「明澤城」の最後の城主となった石﨑四郎三郎日宗の一族は農民となり「庄屋の石﨑」として興居島に定住しました。