興居島で最初に開かれたのは島の西側の鷲ケ巣でした。
【奈良時代】
奈良時代(743年)に、行基が興居島を訪れます。小富士山を登ったとも伝わっています。
行基は、僧侶が民衆に直接教えを説くことは禁止されていた中、積極的に民衆への布教活動を行いました。そのため、朝廷から弾圧を受けます。行基の活動が民衆から支持されるようになると、聖武天皇も行基の力を認めるようになり、東大寺の大仏造営の勧進を依頼します。
行基は弟子たちを率いて各地を回り、多くの寄進を集めました。
興居島を訪れたのは、行基が76歳の時です。この時、鷲ケ巣に祭られていた観音像を見て、寺の建立を思い立ちました。鷲ケ巣の稲荷山にあった栴檀の古木を切り「聖観世音菩薩」を彫り上げ、観音像をその胎内に入れて本尊としました。
当時、鷲ケ巣にいた長者の発起と寄進により、「窪鳥」の坂に観音寺を建立しました。
(観音寺は、1570年代に長曾我部元親の侵攻により全焼したため、1836年に現在の場所に再建されました。)
鷲ケ巣には農地が広がっていました。鷲ケ巣に「薬師稲荷不動」があり、これは千軒家がないと建てられないと言われていたことから栄えていたことがわかります。「長者」と呼ばれる人もおりました。
カサネ岩のあるあたりは現在は海ですが、昔は陸地で、カサネ岩は地面の下にあったそうです。潮が引くと歩いて釣島にまで行けたとも言われており、今よりも海岸線はずっと沖であったと思われます。
【鎌倉時代/島民の大移動】
豊かだった鷲ケ巣ですが、鎌倉時代の弘安年間(1278~1288年)に度々大津波に襲われます。沖の由利島が無人化するほどの被害でした。カサネ岩が現在のように現れているのもこの大津波によるものと言われています。海岸線が大きく後退し、壊滅的な被害を受けた島民は、鷲ケ巣から、島の東側の門田、由良、泊に移り住んだと言われています。
【明治時代/出稼ぎ漁民の定住と海運業の発達】
船越や泊や由良、門田の前には砂浜が広がり、漁師にとっての天然の漁港でしたが、地元の漁師は少なく、明治5年(1872年)には岩城村を拠点としていた出稼ぎ漁民が21戸、興居島に移住し、明治13年には、さらに49戸が移住しました。
島の東側が発達したのは、海運業が発達した明治期に入ってからで、自分の船を持つ船主や「預かり船頭」がたくさんいました。「船方」(乗組員)として他所から働きに出て、そのまま居を構えたりと人口は増えていきました。
【昭和/戦後~現代】
島の人口が最も増えたのは、太平洋戦争後の昭和20年でした。(6,848名)戦地から若者が引き上げ、戦時中途絶えていた「船踊り」も復活します。
しかし、海運業の衰退とともに、島の人口は減少し、子どもたちは中学校を卒業すると進学のため、島を離れ、そのまま島の外に就職していき、興居島は、徐々に少子高齢化の道を歩みます。(2025年の人口921名)
かつて「船踊り」は、踊り手だけではなく、舞台となる「踊り伝馬」を組む人員ほか、地域のすべての人が関わる一大事業でした。
海運業の盛んな時期は、興居島から離れたところで働いていた人たちも、船を興居島に戻し、1か月くらいは仕事を休んで準備にとりかかっていました。
現在、「船踊り」の踊りは担い手不足に陥っています。人員と資金のかかる「踊り伝馬」についても、泊地区の保存会では組むことができなくなり、2024年からは「船」ではなく体育館で踊るようになりました。
現在、海上の「踊り伝馬」で踊るのは由良地区のみとなりました。
興居島の「船踊り」がこれからも続くよう、考える時期に来ているのかもしれません。