伝承・伝説

興居島中学校が1985年3月に発行した「ふるさと興居島」には、興居島に伝わる伝説や伝承が紹介されています。その中に「船踊り」にも関連する次のような話が残っています。原文のまま表示しましたが「ふりがな」をつけております。

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 (とまり)弘正寺(こうしょうじ)の裏手に、昔は龍石山(りゅうこくさん)、今は城山と言われている山があります(城ケ鼻)。城山というのは、その呼び名のとおり山に城があったのです。その山の段になっている所に見張り所があって、そこで興居島(ごごしま)の近くを通っている船を警備していたそうです。また通る船をいちいち止めていたともいわれることから、通行税を取っていたのではないかともいわれています。

 この城山(龍石山)にまつわる話がつたえられています。

 船越(ふなこし)子持山(こもちやま)という山があります。その昔(天保時代)城山と子持山との間で戦争があったそうです。

 何かのことで、城山に、子持山のお姫様を隠しました。それに対して子持山の方では、どこにお姫様が隠されているのか捜していました。

 ある時、子持山の人々が、城山にお姫様を探しに来ました。城山の方では、知らないとうそをついて追い返しました。ところが、城山に落ちていたお姫様のかんざしに日光があたって光ったので、子持山の人々が、それに気づきました。

そして城山へ行って、「おまえたちは、うそをついた!」と言って、お城のいろいろな所を捜してお姫様を見つけ出してしまいました。これがきっかけとなり、城山の人々が怒ったために戦争になったということだそうです。

 城山側が負けたために、お城はくずれ落ちました。今では、城山の上に、戦争で死んだ人のためのお大師様(だいしさま)が祭られています。

 なお、城が健在な時に、伊予の海戦がありましたが、その海戦の時の城の回りで敵が来た合図をしたものを、今の船踊りの「ぼんでん」で表し、城の回りの剣を持って守っていた者を「けんがい」で表し、実際城内での激しい戦いや海上の戦いを「中踊り」で表しているともいわれています。

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上記の話には実際の歴史とは違っているところがあります。「城山」にあった城は「明澤城(あけざわじょう)」ですが、この城が開城したのは「天保時代(1831年~1854年)」よりも昔の天正13年(1585年豊臣秀吉の時代)の「四国攻め」によるもので、毛利3兄弟の末の弟である小早川隆景(こばやかわたかかげ)が興居島に陣を構えました。

当時は、因島村上水軍の城でした。小早川隆景は翌年「城割り」を実施しますが、この時興居島の城は残されました。しかし、小早川隆景が転封となり代わりに福島正則(ふくしままさのり)が入るとやがて城は取り壊されました。船越に城があったと言う話は残っていますが、子持山の城についてはよくわかっていませんが、頂上には石組み列があるようです。

「船踊り」の「梵天(ぼんでん)」「剣櫂(けんがい)」「中踊(なかおど)り」についても、「梵天」は「采配(さいはい)をふる」、「剣櫂」は「切り込み」、「中踊り」は「一騎打(いっきう)ち」とも言われています。

「船踊り」の発祥時期にも3つの説があり良くわかっていないことも多いのが現状です。

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