河野家、村上水軍と興居島の関りについて

このサイトの冒頭にも書かれていますが、興居島の「船踊り」の起源は明確ではありませんが、「海賊衆かいぞくしゅう」(のちの水軍)の武者踊むしゃおどり(凱旋踊がいせんおどり)と言われています。

「海賊(衆)」として有名なのは「村上海賊」ですが、村上海賊は元々河野家とのつながりが強く、興居島の「明澤城あけざわじょう」を治めていた村上(信濃守しなののかみ)弘正は、村上(備中守びっちゅうのかみ)吉光の旗本です。村上吉光は村上水軍三家のうち、因島村上氏で、河野氏において侍大将十八将であり、御船大将を兼任していました。

余談になりますが、村上吉光は河野家滅亡の後は毛利家につきますが、最後は菊間で亡くなっています。最後まで付き従った三十六騎はそのまま菊間で帰農しました。

村上弘正の後に「明澤城」城主となった石﨑四郎三郎日宗いしざきしろうさぶろうてるむねは、1580年に広島の厳島の神を勧請し鎮守の神として興居島に「厳島神社」を創建しました。

興居島の「厳島神社」では、旧暦の6月17日に「十七夜」を行っていて、昭和までは近隣から参拝のための船が並び、沿道は提灯で飾られるなど盛んでしたが、今は規模も小さく静かな祭りとなっています。

「明澤城」の水軍とともにあった興居島ですが、1585年の豊臣秀吉の四国攻めの際に小早川隆景に降伏し城を開城しました。そして1588年「刀狩令」とともに出された「海賊禁止令」により海賊衆はいなくなり、最後の城主となった石﨑四郎三郎日宗の子孫は帰農し「庄屋の石﨑」となりました。

河野家の興居島とのもっとも古い関係については、「船越和気比賣神社」をご覧ください。

昭和45年以前の見張り台
昭和45年以前の見張り台
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