興居島の歴史が河野氏の歴史と深くかかわっていることは「船踊りの変遷」で説明しています。
興居島の「船踊り」が、(興居島)海賊衆の凱旋踊りであることから、河野水軍の戦勝祈願と祝勝奉賛が由来と言われる北条伝統の「櫂練り」と比較してみます。
「鹿島の櫂練り」(愛媛県指定無形民俗文化財)について、松山市のホームページには次のように書かれています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
櫂練りの起源は遠く河野水軍の昔、治承年間(1177年~1181年)にさかのぼるといわれ、水軍の出陣に際し、鹿島の神前に終結して戦勝を祈願し、凱旋の時の祝勝奉賛が鹿島神社の神事となったものと伝えられる。
水軍は近世にいたり、衰微絶滅したが北条辻浜、土手浜一帯の住民は先祖の武勇をたたえ、昔の遺風をしのぶため毎秋重陽の節句に漁船の競漕を試み、櫂練りを演じる風習が伝承されていた。江戸末期にいたってこれを鹿島神社の祭礼に奉賛するようになり、さらに、神輿渡御の御乗船に供奉警護にあたることになって今日に及んだものである。
祭神、武甕槌命・経津主命武勇の神であり、海の守護神でもあって男性的で勇壮な櫂練りは神意にかなったものと言えよう。また、櫂練船の艤装奉仕者のみなり、漕ぎ方、舳先の樽の上で櫂をあやつっている動作、掛け声、鉦鼓の囃など、すべて古式にのっとる独特の伝承行事で、地元少年、青年、壮年が奉仕するのが慣例となっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
今年(2026年)の5月3日「鹿島の櫂練り」は、残念ながら大雨により中止されましたが、10月の第二月曜日(12日/祝日)にも開催されます。
「櫂練り」と「船踊り」に共通する点は、元々は水軍の戦勝踊りであった点、そして「衰微絶滅した水軍」を偲び民衆が継承したものである点です。
「櫂練り」が江戸末期に鹿島神社の祭礼に奉賛するようになったことから、興居島の「船踊り」が船越和気比賣神社に奉賛するようになったのも江戸末期と推測できます。(江戸末期は「船越八幡宮」と呼ばれていました)
共通点は、ほかにもあります。舳先に「梵天」艫に「剣櫂」がいる点です。これは、「大三島の櫂伝馬(競争)」ほか、瀬戸内海の「櫂伝馬」に共通するもので、特に「剣櫂」は艫に固定された「四斗樽」の上に載って剣の形をした櫂を振ります。四斗樽は文字通り酒が四斗(一斗が12リットル)入る樽で江戸時代に普及しました。ですから、四斗樽の上に乗るのは江戸時代からの流行りとも言えます。
違っている点は、「櫂練り船」で踊る「櫂練り踊り」は、「梵天と剣櫂の踊り」を指すのに対して、「踊り伝馬」で踊る興居島の「船踊り」は、「梵天」と「剣櫂」以外に「中踊り」があることです。むしろ現在では、「中踊り」が主と思われています。
「梵天」についても、「鹿島の櫂練り」や「大三島の櫂伝馬」と大きく違う点があります。それは「梵天」が何を指しているのかということです。鹿島と大三島では、「梵天」は「御幣」を指していますが、興居島の「船踊り」の「梵天」は「采配」を表しています。
同じく「梵天」を「采配」としているのが、「大崎上島の櫂伝馬」です。ここでは「梵天」のことを「台ふり」と呼んでいますが、「台ふり」が舳先で振るのは「采(配)」であり同じです。
実は、「大崎衆」は小早川水軍の「備中船手衆」に属しており、乃美宗勝の元、「厳島の戦い」や「木津川口の戦い」に出陣しています。乃美宗勝の妹を妻に迎える村上吉充(因島村上氏)も同じく乃美宗勝の元、「厳島の戦い」や「木津川口の戦い」に出陣していることから、「因島村上氏」と縁のある興居島と共通したと思われます。
興居島では、「梵天」は「采配」を表し、「剣櫂」は「切り込み」を表し、「中踊り」は「一騎打ち」を表します。
現在の歌舞伎調の「中踊り」からは想像もできませんが、明治時代末期までの「中踊り」は刀を振る動作を繰り返すものでした。
神輿の「海上渡御」を曳航する櫂伝馬と別に、「踊り伝馬」を曳航していたことから、神輿側は「祭事」としの要素を残しつつ、「踊り伝馬」側は、その時々の流行りや文化芸能を吸収しながら独自の発展を遂げて、現在の形になったと思われます。
初めて「船踊り」を見た人の多くが、「平安時代から続くと言われているのに、どうして歌舞伎調? 江戸時代?」と違和感を持たれるのは、この変遷のためです。
ただ、歌舞伎調でありながら、セリフはない無言劇です。華やかな音楽はなく、太鼓と拍子木の決まったリズムに合わせて「六方」を踏み、「見栄」を切ります。
この独自の変遷を続けていく「船踊り」を純粋にお楽しみください。